序章:現実からの逃避
現実がしんどいとき、人はどこかに逃げ場を探す。
僕にとっての逃げ場は、VRの中だった。いや、もっと正確に言うと、VRChatの中だった。
僕は昔から体が弱い方で、あちこちに不調を抱えていた。頭痛、吐き気、原因不明のだるさ。そういうものを抱えて病院に行くたびに、同じような対応をされた。
「ストレスでしょう」
「気のせいですよ」
診察室の冷たい蛍光灯の下で、僕の声はまるで壁に吸い込まれていくように消えていった。まともに診断されないことが積み重なり、やがて「医者」という存在そのものに対するトラウマが出来上がった。
信じていたものに裏切られたような気分だった。だって、助けてくれると思っていたのに。
白衣を着ている人たちは、僕にとって救いではなく「心を否定する存在」になってしまった。
だから僕は、現実に疲れた夜、VRChatに飛び込む。
ここでは、誰も僕を病人扱いしない。誰も「気のせいだ」とは言わない。
アバターをまとってしまえば、僕の体は元気だし、思うように動ける。フルボディトラッキングで踊るとき、自分の体は不自由を知らない。アバターは僕を裏切らない。
ここは、唯一まともに呼吸できる場所だった。
第1章:出会いたくない影
でも、VRの中にも「会いたくない人」がいる。
ある晩、フレンドのフレンドに誘われて、とあるバー風ワールドに行った。
雰囲気は悪くなかった。落ち着いた照明、木のカウンター、ゆるやかに流れるジャズ。アバターたちが静かに会話していて、そこだけ現実の喧騒から切り離されたような心地よさがあった。
でも、その空気を壊す一言があった。
「いやー、俺、リアルでは医者やっててさ」
瞬間、心臓が跳ね上がり、体が硬直した。
笑顔のアバターが何気なく放った言葉。それだけで、僕の中に警報が鳴り響いた。
頭の中で、あの診察室の光景がフラッシュバックする。
冷たい声、無表情な医師の顔、そして「ストレスでしょう」の一言。
バーの空気は穏やかだった。周りの人たちも「すごいですね」とか「やっぱり忙しいんですか?」なんて興味津々に会話していた。でも僕は、そこにいられなかった。
喉が詰まり、呼吸が浅くなっていく。アバターの体は平然としているのに、現実の僕の手は汗で濡れていた。
その人が悪いわけじゃない。本当に。
ただ「リアルの自分」を話しただけなのだろう。けれど僕にとって、その言葉はナイフのように突き刺さった。
第2章:広告のノイズ
居心地の悪さに耐えきれず、僕はその場を抜け出した。
次に向かったのは、近未来都市をテーマにしたワールド。ネオンが輝き、巨大なスクリーンに広告が並んでいる。サイバーパンク的な雰囲気が、現実から完全に切り離された世界を演出していた。
「ここなら大丈夫かもしれない」
そう思った矢先、目に飛び込んできたスクリーンの文字に足が止まった。
──「メディカルサロン開業!」
──「現役ドクター監修!」
笑顔の白衣姿が映し出されている。
胸がぎゅっと締めつけられる。
単なる演出、ただの広告。それくらいはわかっている。だけど、僕には関係なかった。現実で積み重なった記憶が、無遠慮に呼び起こされてしまう。
せっかく逃げてきたのに、ここでもトラウマに追いかけられるのか。
広告は誰かの努力の結晶かもしれない。でも僕には「心を削るノイズ」にしか見えなかった。
「ここも違う」
思わず呟く。ログアウトしたくなった。でも、それじゃ負けだと思った。
逃げ場を自分から手放すことになる。それは嫌だった。
第3章:移動する選択
だから僕は、ワールド検索を開いた。
条件はただひとつ。「落ち着けること」。
目に留まったのは、誰かが作った小さな湖畔ワールドだった。サムネイルには月明かりに照らされた湖と、木のベンチが映っている。インスタンスはパブリックなのに、誰もいない。
「ここに行こう」
ポータルをくぐると、静寂が訪れた。
湖面が月を映し、風が木々を揺らす。広告はなく、白衣もなく、ただの自然が広がっている。
やっと息ができた。
胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。
「逃げてもいいんだ」
そう思えた瞬間だった。
第4章:やっと息ができる空間
ベンチに腰掛け、ぼんやり湖を眺めていると、ひとりのユーザーが入ってきた。
小柄で可愛らしいアバターだった。彼女は軽やかに手を振った。
「こんばんは、ここ初めてですか?」
その声は不思議と心に引っかからなかった。
自然と会話が始まった。彼女はこのワールドのこと、アバターのこと、好きなダンスのことを話してくれた。リアルの話は一切出てこない。
それが安心だった。
「リアルの肩書き」に怯えずに済む会話は、こんなにも心地いいのかと実感した。
「ここなら、いられる」
本当にそう思えた。
終章:逃避の先にある救い
僕はまだ、「医者」という言葉に怯える。
ワールドの広告ひとつで、胸がざわつく。
完全に克服できたわけじゃない。
でも、それでもVRは僕に居場所を与えてくれる。
すべてのワールドが安全ではないし、すべての出会いが優しいわけでもない。けれど、自分に合う空間を探すことはできる。逃げることだってできる。
現実から逃げてきて、さらにVRの中で逃げることになったとしても、それでいいじゃないか。
逃げ続けた先に、ようやく「息ができる場所」にたどり着けるのだから。
湖畔のワールドで風を感じながら、僕は思った。
逃避は敗北じゃない。生き延びるための選択だ。
そして僕は、今夜もまたログインする。
現実の傷を抱えたまま、それでも「もうひとつの自分」として。
